部活って奴隷養成所だよね

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年始にこの記事を見て思った。

部活って奴隷要請所だな。

褒める文化なんてほぼほぼないだろう。

特に運動部は指導という名の意味ないしごきや場合によっては体罰もある。

それをさも意味有りげにやるので、年端もいかない子どもたち(といっても高校生・大学生の場合もあるが)は洗脳され、

“あのときはつらかったけどあれを経験したから働き始めた今はどんなことがあっても耐えられる”

などと生存バイアスかかりまくりのたまたま強くて生き残っちゃった人が抜かすわけ。

例を挙げるなら広島の方にいる男気あるプロ野球の投手とか(注:何の恨みもありません黒田さんごめんなさい)

で、それが美談として扱われる。その美談の裏には耐えられなかった人がめちゃくちゃいることを知ってか知らずか…

なおかつその人が「指導者」なんかになった日にゃもう大変。同じこと繰り返すよね。

というか、指導者ってあくまで指導する役割を担う人なだけで、本質的には指導される側との上下関係はない。とはいえやさしい言葉、態度だけではうまくいかないこともあるから、厳しくやってしまうことで「上下関係のようなもの」が発生するときもある。

ただ実際は指導者やってると敬われるから、勘違いする人が圧倒的に多いのだろう。

でも、叩く、殴るは何があってもダメだろ。

そもそも上下関係はないのだ。叩く、殴るはその人を下だと思っていないとできない行為だと思う。

最後に「部活って奴隷要請所だな」と私がもっとも感じた瞬間を記す。

とある友人がいる。彼はあるスポーツを高校まで続けており、時には水を飲むなと言われたり(平成の話です)、当たり前のように殴られる環境に身をおいていた。

友人と話していた時、「昔がんばったこと」の話題になった。

私は高校からあるスポーツの団体を自分でつくり、活動していたのでそれを話した(部活は中学でドロップアウトした)。

それを聞いた友人は、ひとこと「でも、それって遊びだよね。」

上記したような彼のバックグラウンドを考えると、否定的なニュアンスにしか感じられなかった。

遊びで何が悪いのだろう?

楽しくやろうとすることが悪いと 

思っているのだろうか。

本質的にスポーツは楽しむものだと思う。

そこに部活動という要素と、なんでも「道(どう)」化させてしまう(※この「道」化の説明は後ほど)日本人が絡まり根深い問題となっている。

 

何でも道にしてしまう日本人――これは2011年頃「ニートの海外就職日記」というブログを運営していた海外ニート氏の言葉である。現在は閉鎖されている。原因はアンチによって個人情報が特定されそうになったことを案じたためだった。当時からやはり賛否両論あった。

茶道、柔道、剣道など日本伝統の「道」がある。気高い精神を養ったり自己実現ができたりするものだが、日本人はそれを労働やその他いろいろなものにも持ち込んでしまうのだという。

部活動も部活“道”になってやしないかと心からおもう。

以下はTwitterにある彼のブログから引用したbotのツイートである。これを見たら理解いただけるはず。

 

 

 

 

 

このアカウントを見つけた瞬間、光の速さでフォローした。

あと、海外ニートさんもいってるけど「たかが仕事」“Job is shit!”だから、今本当につらい人はあなたの生存を最優先に考えて。

 

柔道事故

柔道事故

 

 

 

部活があぶない (講談社現代新書)

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ブラック部活動 子どもと先生の苦しみに向き合う

ブラック部活動 子どもと先生の苦しみに向き合う

 

 

人間関係で消耗していた

仕事上の人間関係で消耗していた。

過去形なのは、これは約1年前に書いたものだからだ。

現在はその当時よりマシになっている。

以下、続きます

 

人となるべく関わらない仕事をしたいと思うも、そうもいかない現実もある。
 
コミュニケーション・コストを払うことを俺は異常に避けてしまう。
自分自身が消耗してしまうことを極端までに恐れている。その態度が、時に人間関係を悪化させたり、疎遠になったりしてしまう気がする。
 
また、コミュニケーション・コストを払われる(と感じる)のも嫌だ。が、実際は払われていると思う。いわゆる「気を遣われる」というものだ。
できることならいつもいい表情をしていたい。しかし、できない。気付いたらたぶん険しい表情になっている。
 
可能な限り機嫌よさそうにしていたい。
 

平和という礎

※このブログは2016年8月15日に下書き保存していたものを加筆修正しました

 

靖国神社に行った。

呼ばれた気がした。そして、日本人として今日に行ける環境にあれば行っておかないと、と思ってしまったから足を運んだ。

境内は様々な世代の人であふれていた。

普通の格好の人が圧倒的に多いが、兵隊さんの格好をしている人や、そういう団体の人は迷彩とかそれっぽい格好をしていた。

 

その時の若者に比べたら今に生まれてよかった。と思ってしまったが、その前提が間違っているのかもしれない。比較対象が、「戦時中」の若者というイレギュラーな時点でおかしいのだ。

 

これは、「仕事があるだけないよりマシ」という論と似ている気がする。

今かかわっている仕事でちょくちょく上司から言われる。その上司は仕事のない時代も経験しているから実感であることには間違いない。が、そもそも「仕事がない」という状態は企業にとっては本来イレギュラーな状況なはずだ。正論ではあるのだが、その論を振りかざすのは違うと思った。