相模原の凄惨な事件を経て、人間の存在について考える

私も疲れているのかもしれない。極端な考えなのは承知のうえで、

日頃考えていることを書きだした。チラシの裏では済ませず、公開をする。

 

障害者なんかいなくなればいい――

障害者は不幸を作ることしかできない――

極端な考えの容疑者によって起こされてしまった今回の事件。

しかし、私は容疑者の考えを100%否定出来ない。

むしろ、100%否定する人がいるとすればそれはキレイゴトをいっているにすぎないとすら思ってしまう。

 

私はこの事件から、未来の人間像について考えてしまった。

 

近い将来、労働の再定義が始まることだろう。

ロボットの台頭によって。

人間が行っていることが単純にロボットに置き換わるものも

あるだろうし、もっと複雑に変化が起こる仕事もあるだろう。

 

そうしたとき、人間はどういう存在になっていくのだろう。

なんだかんだいって、人間にとって労働は尊い存在であり、無くてはならない行為だと思う。尊いと思う理由は、労働の対価として賃金を得て、生きながらえているという事実だ。

もし労働で賃金を得られない人間が増えたら、どうなってしまうのか。

福祉が面倒を見ることになると思うのだが、現在の生活保護制度はマイノリティだから成立し得るもので、生活保護受給者がマジョリティになってしまったら成立するのだろうか。

生活保護制度の恩恵を受ける人がマジョリティになる社会とは、

ベーシックインカムが普及した社会と置き換えることができる。

ロボットによって職を追われた人間はどうすればよいのか。

ベーシックインカムで暮らせば良いのか?果たしてその費用はどこから来るのか?だれが払うのか?払う人はそれを許容できるのか?

 こうしたことを考えた時、果たして今のように「人間だから」人権があり、生存権があり、生きているのが当然の社会であり続けられるのだろうか。

ベーシックインカムでただ生きながらえている人間を、許容し続けることが可能なのか。

むしろ今でさえ、「人間の尊厳を守るために」、意図的に労働市場へのロボットの進出を妨げているぐらいには考えている。

 

果たして、人間はそこまで偉い存在なのだろうか。