器を作る年

年が明けた。

2016年(平成28年)、あっという間に平成という元号もアラサーになっている。

それは自分も30歳に近づいていることを意味する。

年末ジャンボの抽選があった。今回は1等前後賞で10億円というとてつもない金額だ。

実家に帰省した際、父が「今年はちゃんと宝くじを買う」と言っていた。実は毎年のように同じ事を言っている。7,8年前には実際に買ったこともある。職場にも買っている人はいる。

しかし、実際に10億円、いや前後賞のどちらかの1億5千万円でも当たってしまったら身を持ち崩す可能性は相当高いと思う。その可能性を減らすためにみずほ銀行も冊子を出しているのだろう(【その日】から読む本 - Wikipedia)。

年末の有馬記念で少しだけ馬券が当たった。のべ8年の馬券購入のマイナス収支がトントンになるぐらいの払戻金額で、これまでで一番大きい金額だった。その日はちょうど人と会っていた。中には有馬記念を買っていた人もいた。だから私はそれを公表し、一緒にいた人のためにその数割を使った。こういう臨時収入は、自分のためだけに使うなんて言語道断だ。この精神は先輩や同輩に教えられた。それと情けは人のためならず、という欲もある。

 有馬記念で当たった金はもうなくなった。そんなもんだ。ここで貯金という選択肢は私には選べない。

当たったことがわかった時の高揚感は結構あった。が、信じられない気持ちもあった。これほど予想が的中したのは初めてだったからだ。

きっと宝くじが当たった時もこんな感じなのだろう。同じように私は舞い上がる。

そして今の私には、今回の有馬記念での臨時収入の金額程度が「突然の臨時収入を受け入れられる器」なのだろう。

宝くじを当てたい、金持ちになりたい人はたくさんいると思う。ではそのために何が出来るか。今の自分の器では金持ちになるにしたって全然足りていない。多すぎる収入に耐えられず、ただただこぼれていくだけだろう。人が関係する場所にしか金も関係しない。まずは人の役に立ったり、自分自身の向上で大金を受け入れられる器を作る必要があると感じた年末年始だった。

同世代でも無意識にやれている人がいる。そういう奴はどんどん器を大きくしている。

フィールドは違えど負けていられない。

 

 

10分間ブログ

フミコフミオさんリスペクト企画
10分間以内にアップをする
内容や質を問わず、やります。

座禅をしたい。根津で土曜の朝にたった300円でできるらしい。
煩悩に悩まされている。仕事中も邪魔な考えが頭の中に浮かんでくる。瞑想とか、座禅とかを取り入れないと厳しくなってきたかもしれない。
しかし、その一歩が踏み出せなかったりする。尊敬する林原めぐみ氏は「人生の楽しみは面倒くささの先にある」と言っていた。壁に貼ってあるのに、実践できていない気がする。

金カネ問題

金のことをブログに書くのがありとか不愉快とか様々な意見が飛び交っていますね。
たぶん定期的に論争が起こる話題ですね。偶然にも当ブログでお金のことを取り扱った後にこの定期的な論争が来てしまった。

俺はアリだと思います。
書評とかを書いて、リンクを貼ってそこから読んでいる人が買うだけで報酬が発生するなんて通常の口コミではあり得ないし、素敵なことだと思う。そしてもはやそれがインターネットの利点の一つでもあるから。
それがブログの上下やサイド部に貼られる広告であってもいいでしょうね。広告はほぼ不要で積極的に見たくはないものだけど、この時代にそんなことを言ってはいられない。立ち位置として必要悪(悪、としていいかもわかりませんが)のようなもの。

それを不愉快と表明するのも自由。



【アフィッ】本当にありがたい

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ふとAmazonアフィリエイトを見ると、
今月は2冊もこのブログ経由で本を買ってくださる方がいた。
そしてコンバージョン、100%!(ドヤァ)

注:2/2…笑

最低振込金額の5000円どころか、Amazonギフト券として支払われる最低金額の500円さえまだまだですが、本当にモチベーションになります。

ありがとうございます!!
(これからも、よろしくお願いします)

※追記 調べ直したところ今回で500円は突破できていました。本当にありがとうございます!

スポーツの審判は人間の善意

私はフットサルの4級審判を持っている。
4級は、審判資格の中では一番取得しやすいレベルだ。基本的なルールさえ把握していれば、未経験者でもとれる。

所属チームが地域のリーグ戦に参加している。そこでは他チームの試合の審判も行うことがある。アマチュアなのでもちろん報酬もない。

普段やりなれていないこともあるけど、審判というものは本当に難しい。
ルールを遵守することは当然で、さらに試合の流れや対戦チームのレベルの差やテンションを考えて判定を行わなくてはならない。
その度に思うのが、スポーツの審判は本当に損な役回りだということ。そして、プロの審判はすごいということだ。

基本的に審判が褒められるということは、ない。
あるとすれば人命を救ったなど、審判ではなく他の人間でもできたようなことばかりだ。

そして、人間の目には限界があるにも関わらず、ゴール判定のミスやファウルの判定ミスをしたものなら不利を受けたチームの選手、スタッフ、サポーターはおろかそのチームに関係のない人間からも容赦ない言葉が浴びせられる。

実際に私も、スポーツの観戦者となって試合を見ているとき、やはり納得がいかない判定については一言いってしまう。

審判は試合を成立させるのになくてはならない役回りだ。
しかし、観戦者になるとそのことを忘れてしまう。
審判も人間だ。そして、裁判官のような権限などはなく、アマチュアスポーツでは善意でやっている人がほとんどだ。
だからせめてプレイヤーの時は、審判の方とフットサルを愛する者同士として良好なコミュニケーションをとれたらと思う。
相手チーム然り、試合を共に行う「仲間」として。